ミャオロック前史:4 The Grandfather of Miaow Rock

hidizo2006-08-24



ついに、ミャオロック史における最も重要なマイルストーンとなる男のことを考える。
バディ・ホリーである。
ミャオロックそのものを生んだわけではないのだが、彼こそが始祖、彼こそが全ての根源、まさにビッグバンであるといえよう。
彼は3つの点において重要である。


まず、あの声。
腹から出ていないうねうねした歌唱。一見まるで鼻歌のようでありながら、明らかに粘っこい。その背景にはよく判らないエナジーがある。
リトル・リチャードはもとより、チャック・ベリージェリー・リー・ルイス、勿論エルヴィスに至るまで、ロックンロールとは直接的なエキサイトメントを爆発させるための音楽であり、その表現は自ずと激しかった。
それに対し、バディのそれはまさしく引きの芸風。例えサビに向かっても沈着冷静というか、けっしてメロディのフックを無闇に強調しない優柔不断とも言える展開が待っている。それは、ある意味ロックンロールのマチズモに対する挑戦とでもいえる、なよなよとした抵抗がある。そこに、何やらよく判らない反発やエナジーを読み取れるのではないか。
しかもそこに、咽で強引にクイクイこぶしを回すヒーカップ唱法、通称シャックリ唱法が加わる。粘っこい歌にこのしゃくり上げるような裏声が連なると、とても不自然なフックを生む。これにより、腹から出ていないドスの利かない声質や声量であっても、節回しでアクセントを付けることが出来ることを多くの人に気づかせることになる。
勿論、そこにはカントリーやヨーデルやメキシコ音楽などのバックボーンがあってのことだが、それを実に汎用的な方法に展開し、そこに強烈な「白さ」を忍ばせたのが彼であったと言えるだろう。


二つめはルックスである。それは歌唱にたいへん見合ったものであった。
短めに整えられたチリチリ頭に黒縁眼鏡、というまるで喜劇王ロイドのような、会計士風の地味なルックスは、ロックンロールの不良性に対するアンチ、アンチに対するアンチのようである。
彼は、自分で曲を書き歌った作品が多く、自己表現としての意味合いを感じることが出来る。
一見ロックンローラーとは思いがたい眼鏡着用のルックスは「より彼がリアルに近い部分から表現を生み出している」現れであり、さらには「自分自身でありなさい」という一種のメッセージを含んでいたのでは無かろうか。


三つ目。クリケッツという三人編成のバンドと共に活動したこと。
勿論、ロックンローラーは専属だったりその場に応じてだったりするバンドとともに活動するのが必要不可欠だが、バディとクリケッツの関係は、フロントとバックという明確な区分よりは、もっとバンドとしての一体感が感じられる。
それはよく見られる四人で映ったアーティスト写真という打ち出し方だけにとどまらず、サウンドにも感じられることだ。二本のギターとベースとドラムス。ザックリしたギターの絡みと力強くもシンプルなリズム。簡潔にまとめられたアンサンブルは、無駄な装飾やテクニックの見せびらかしといったものが、ロックンロールに必要ないことを宣言する。しかも、頭脳的とも言えるクールネスを醸し出している。
それは同時に、ガレージ的な感覚の表出である。シンプルであるが故に、若者は「これなら俺たちにも演れるかもしれない」という感想(多くは勘違いだろう)を持ったに違いない。


腹から出せるような太い声が無くても、見た目が普通の人であっても、過剰なテクニックがなくても、ロックンロール・バンドの昂揚を生み出すことが出来ることを証明し、楽器を持つこと促せ、勇気づけたのが彼である。
それは勿論ミャオロック云々以上にロックそのものにおける功績として実に大きい。ビートルズがモデルにしたのが当にクリケッツであり、ジョン・レノンの歌唱に与えた影響も多きい。


しかし、なによりも大発明だったのがあの歌唱法であろう。
粘っこく、軽く、白い。
なにより、あの歌い方を擬音化すれば「ミャオミャオ」であることは間違いない。あの「ザットル・ビー・ザ・デイ」や「ワーズ・オブ・ラブ」の狂おしいモゾモゾするミャオ感。これこそがミャオロックの本質である。
勿論、彼の声は後のミャオロッカーよりは遥かに太く、声量も豊かだ。


エルヴィスは見果てぬ夢。そして、バディこそがミャオロックの規範である。
彼こそ、グランドファーザー・オブ・ミャオロックという称号が相応しいだろう。