スピリット・オブ・ミャオロック

hidizo2006-06-29



ミャオロックとは何か。
ミャオミャオ歌ってるロックのことである。

要はそれだけで、後は色々なバンドに対して「これはミャオか?そうでないのか?」という見立てを行っていくだけのものですが、これが実は案外曲者である。
ミャオはライフ・スタイルではない。
物凄いマチズモの権化で、ラージャー・ザン・ライフなロックンロール・ライフを送っていようが、ミャオミャオ歌ってるんならそれはミャオ。
蚤の心臓で臆病で、全く面白味のない平々凡々たる人柄でも、ジョン・フォガティみたいにド太い咽で吼えることが出来るなら、そいつはミャオではない。

ミャオとは表層的なヴォーカル・スタイルである。


しかし、単なる表層と片づけることができないのもまた真実である。
ミャオミャオがなってる歌から我々が受ける印象というのは、底抜けのマヌケさと情けなさであるが、むしろその背後に漂う「ボクをかまってよぉ」という甘ったれた剥き出しの欲求に刮目してしまうことが少なくない。
よって、場合によっては野太い歌い口なのに、物凄いミャオ感が充ち満ちてくる場合もある。ストゥージーズ時代のイギー・ポップを思い出して欲しい。太く厚みのある声でありながら「ボクお犬さんになる」と懇願するように四つんばいでうなる姿に、はち切れんばかりのミャオ感がある。

おそらく、ミャオロックに対していい気分にならない人たちというのは、この年甲斐のない甘えん坊振りや自堕落さ、潔癖な倫理の枠の中に存在しがたい甘えっぷり暴れっぷりに生理的な嫌悪を抱くのではないか。


ミャオの歌い口の中には、「気にしないぜ」とか「放っておいてくれ」というタフさは間違っても存在しない。
「こっち見てくれよぉ」とか「何か言ってくれよぉ」とか、そういう「寂しいよぉ」光線が大量にまき散らされる。

結果として、無茶苦茶危険で露悪的なパフォーマンスに向かうことは多い。
思い出して頂きたい。
大概無茶なパフォーマンスする奴って、こういう歌い方してなかったか?あるいは本人の表層がそれと異なってもミャオミャオ歌ってる奴の影響を語っていたりしないか?
また、寂しさ故にクスリやアルコールに身をやつす自堕落な生活で実を崩していく場合もある。

ジョニー・サンダースを見よ。ハートブレイカーズ初期もミャオミャオ歌っていてそれは既に「別格」のレベルだったのだが、それがクスリだの何だので身を崩してズタボロになり、生ける屍のような姿を晒しながら最後の活動に向かっていくのだが、本人の命の火が弱まれば弱まるほど、ミャオ度は加速度的に増していく。音楽としての完成度と反比例するミャオの驚異。
ミャオは、物凄く長い長い時間をかけた自殺行為に近い。


ミャオロックは多くの場合、社会情勢を歌ったりしない。
5割が他愛もないラブソング、3割が自分の生活、2割が内省と言ってもいい。
間違っても熱帯雨林とか政治を歌ったりはしない。
なぜなら寂しさでいっぱいいっぱいで、他のことに目を向けてる余裕なんぞ無いからだ。

ロックンロールとは寂しい音楽でなければならない。
寂しいから喧しい。
寂しいから下世話で分かり易い。
寂しいから人の目を引きたがる。
寂しいから一人での演奏に向かない。
寂しいから多数で居ても、結局一人の孤独に戻っていく。

ミャオロックとは、そういう寂しさを最も明確に体現している、真のロックンロールである。